見どころ紹介

ATTRACTIONS

35.石塔が根・切井道・残る大神様(おおがみさま)伝説、中世の村長浅山氏居住説

石塔(せきとう)が根(ね)(金毘羅様)
道路の拡張工事で原形が少し変わったが、小高い丘の上に金毘羅様が祀られ、多くの石造物がある。灯籠・経王塔(きょうおうとう)・庚申塔(こうしんとう)・名号塔(みょうごうとう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう) などがある。灯籠は六角で三日月と太陽の透かし彫りがあり恵那では最も古いものとされる。経王塔、庚申塔は60年ごとに建てられたという。名号塔には『延宝2年4月(1674 江戸時代初期 ) 厄払い47人』と刻まれている。宝篋印塔は鎌倉時代の作風で地下に経文の小石がある。

切(きり)井(い)道(みち)・城ヶ根(じょうがね)の砦跡
ここから切井へと道が続いており、黒瀬街道の脇道として多く利用された。この道を上(のぼ)った洞峠の尾根、東方200m付近に、安土桃山時代 (1590~1600 ) に使われていた城ヶ根の砦跡がある。あまり広くはないが、三方が断崖になっていて、一方が傾斜となっている。砦付近は見通しもよく、また近くに水が豊富にあることも好条件となり、砦として利用されたものだと考えられる。様々な生活道具も発掘された。城ヶ根は城ヶ峰ともいわれている。
砦には2つの説が残っている。
〇犬地城の遠藤胤(たね)直(なお)が築いた砦があったと言われる。石田三成(西軍)と徳川家康(東軍)の戦いで、西軍側に加勢し、滅んだという。

〇砦は、1590年くらいの安土桃山時代に、遠藤小八郎景一が築いたものと言われる。小八郎景一は郡上にいた遠藤但馬景方の弟であるという。兄弟は4人で、景方は郡上に住み、次弟景一は中之方村、三弟は福岡村、四弟は神土村に居を構えていたと伝えられる。いずれも砦を築き領内を守っていたが、関ヶ原の合戦の時に、西軍に味方し、そのため、滅ぼされたという。この砦も、その時に落ちたと言われ、砦の跡からは、鉢、皿、茶碗、鍋、釜の破片や、槍、矢の根などが出土したという。

残る大神(おおがみ)様(さま)伝説、中世の村長浅山氏居住説 
この付近(柘植歯科医院裏手の桑畑)に四角い石積みの自然石の墓が建っていた。高さ70㎝ほどの石碑で、表に『大神様』とだけ刻まれ、近くの数件で1年に一回お祭りをしていたという。伝えられた話では今から800年近い昔、日本に南北二人の天皇ができ、武士も二手に分かれて戦った南北朝時代があった。中野方にも木曽西古道を通って、宗(むね)長親王(ながしんのう)の子尹(ただ)良(なが)親王(しんのう)の一行が滞在されたと伝わる。皇子はここで首を切られ、東の谷落川で首が洗われた。落川は『落川』ではなく『御血の川』ではないかと推測されている。(現在は8区丸山神社で多数の神仏に交じり祀られている)
また、この辺りには中世の村長浅山氏が住んでいたと伝えられる。浅山氏は大和からこの村に移り、新畑(4区)に鎮守の森、春日神社を創建したといわれる実力者であった。この辺りには取次所(とりつぎじょ)として使われたであろう、将門伝説大会所(だいかいしょ)や小会所(しょうかいしょ)(大海戸、小海戸)、新府平など、心に残る言われや地名、屋号が多い。     
(柘植功著 日本の真ん中中野方P40)

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