黒瀬街道とは

ABOUT KUROSE KAIDO

1. 黒瀬街道の概要

黒瀬街道は、江戸時代に整備された街道です。木曽川の船付場であった黒瀬湊(現加茂郡八百津町)を出て、久田見―福地―中野方―蛭川―高山(現中津川市福岡町高山)を経て飛騨街道(南北街道ともいう)に合流し、更に南下して苗木城下(現中津川市)まで続いています。

黒瀬湊と苗木城下を結ぶ幹線道路で、人の往来や物資の輸送を司り、苗木領の村々を支えた道路でした。
黒瀬街道は近世以前の木曽西古道きそにしこどう(旧中山道)とほぼ同じルートであり、太古の岐蘇きそ山道を改修したものと言われています。 

物資の運搬には川の果たす役割が大きく、苗木、福岡、付知、加子母を始めとする北恵那地区は川の流れが強く舟運しゅううんに頼ることができないために黒瀬湊に通ずる黒瀬街道が重宝がられました。地方の経済を支えて来たのが黒瀬街道であり、苗木藩の大動脈でした。

2. 中野方村の道筋

福地の山道を過ぎると、恵那郡中野方村(現恵那市中野方町)との境があります。「殿様の井戸」を越し、急坂を下ると中野方村の大曲・坂折地区に出ます。ここからは比較的、平坦な道が続きます。やがて「馬橋」で大谷(現力石川)を渡り、「力石」から山間に入り、中野方川の上流部を沢渡りして急坂を登りつめると境の「たがみ峠」に到着します。

3. 街道の距離と道幅

街道の距離は10里11町57間、約40.6km。
道幅は軍事上の目的から、領内にある道幅は4尺2寸(約1.3m)に制限されていました。

そのうち、中野方地内の長さは2里8町23間(8.2km)と記録されています。
(明治14年 各村々が県庁に報告した「各村略誌」の記録より)

4. 街道と橋・道つくり

黒瀬街道沿いには大きな川は少ないですが、山間より流れて街道を横切る小川・沢は多くあります。それは「苗木領道程開帳」に記されています。中野方では、橋が14カ所と記録されています。「ねむのき橋」「一本がや橋」「馬橋」「ささば橋」が地名として残っています。

道つくり

街道では定期的に補修作業が行われ、「道つくり」と呼ばれていました。
中野方村での道つくりは、古くは春の宗門改の前と、8月(旧)の2回でしたが、享和元年(1801)からはこれに秋を加えて年3回実施していたようです。
享和元年の記録では、村内には、黒瀬街道の外に切井道きりいみち飯地道いいじみち篠原道すずわらみち潮見道しおみみち赤河道あこうみち河合道かわいみちなどの諸主要道があって、総延長約5里7町(20.4km)ほどありますが、村内245人で分担して道つくりを行いました。このうち、黒瀬街道は、全長2里8町23間(8.2km)で、その間に橋が14カ所あり、これを村内の121人の者に分担して行ったと記されています。

また嘉永7年(1854)中之方諸事規定帳には、「村内道しくそうろう諸人もろびと難渋なんじゅうニ成り且つハ村方之外聞ニもかかわり候精々入念相作り銘々の作場つくりば名札なふだ相立あいたて置可申候事」とあります。

『道つくり』という事業、そして、その言葉は、現在も自治会の行事として、清掃作業も兼ね、町民のボランティア活動として続いています。

5. 黒瀬街道の機能・役割

《村々は苗木藩の定めた規則で運営されていました(主なものは問屋と料金の定め)》

問屋の設置

「問屋は江戸時代、街道の宿駅で、人馬などの事務を行った所(広辞苑)」です。
宿役人が詰め、一定数の宿人、馬や助郷人馬を指揮して輸送にあたり「会所かいしょ」とか「伝馬所でんましょ」と言われていました。
黒瀬街道では、これを「継立所つぎたてしょ」とか「取扱所」とも言っていました。明治14年「各村略誌」には、運輸会社の項目に「中野方村継立所」と記されています。
江戸末期には、同村の町組の清水屋万三郎が問屋を営業していました。中野方村の馬方(馬に荷を引かせて運ぶ職業の人)は坂下・苗木・高山・蛭川方面から送られてきた荷をここで引継ぎ、久田見の問屋や黒瀬へ運び、黒瀬で陸揚げされ苗木・坂下地方へ送られる生活物資を問屋へ運んでいました。
(中野方町史『生きている村』)

運送にかかる駄賃

基本的な駄賃(元賃銭)は幕府によりさだめられていました。本馬1里42文が基本とされ、時代と共に元賃銭を基準に料金が変更されました。
苗木藩でも寛文5年(1665)に領内の荷物輸送料金を、1里について本馬ほんま48文・軽尻かるじり32文・人足24文と定めました。
※本馬…馬一頭に40貫(150kg)までの荷物を付けた料金
※軽尻…馬に人と5貫目までの荷か、20貫までの荷物を付けた場合の料金

幕府の定めは馬に負担をかけないために定めたものです。今の重量制限のようなもので、馬1頭の荷重は40貫(150kg)までとなっていたので、苗木藩では、運搬の効率化を図るため、3斗俵(45kg)を3俵付け135kgの荷物を運んでいました。

『福岡町史(資料編)』によると、
蛭川より中ノ方迄 1里27町(約6.9km) 本馬82文(約4,000円) 軽尻56文(約2,700円)
中ノ方より福地迄 2里2町(約8.1km)  本馬103文(約4,900円) 軽尻66文(約3,100円) と、あります。

6. 黒瀬街道の物資輸送と通行者

町史に見る物資の輸送

中野方村の問屋は町切にあって、江戸末期には町組の清水屋万三郎が問屋を営んでいました。中野方村の馬方は、久田見村の問屋と清水屋の間を往来して、坂下・苗木・高山・蛭川方面から送られてくる、板ゴ・カジヤ炭・木紙もくし(和紙)・茶などを黒瀬方面へ運び、黒瀬で陸揚げされた生活物資(塩・藍・綿・雑貨)を苗木・坂下方面の問屋へ運んでいました。
中野方村ではこの馬を「クタビ馬」と呼び、久田見へ運ぶ荷を「下り荷くだりに」、久田見から運んでくる荷を「戻り荷もどりに」と呼んでいました。
(中野方町史『生きている村』)

年貢米

黒瀬街道は苗木領村々の年貢米を輸送するための主要道路でした。米を収めた郷蔵跡地、棚田の酒屋屋敷石垣うえの蔵(現坂折棚田なごみの家)など当時を感じることができます。

※明治5年の村の記録
戸数が247軒に対し、馬は188頭飼われていました。
馬は農林業を手伝ったり、物資を運んだりと人間と共に暮らしていました。
街道沿いには馬に関係した地名も多く、馬が生活に身近であったことがうかがえます。

人々の暮らし

黒瀬街道は、苗木領村々の生産物を黒瀬湊へ運ぶ重要な道路でしたが、特に久田見地区は、黒瀬街道に加えて、白川道、赤河道など、苗木領の村々からの道のかなめになっていて、この村の人たちが人の背や牛馬によって村々の生産物を黒瀬湊へ運び、その駄賃付けや、徒歩荷かちに(歩行持ち)などによって生活の助けとした(農閑期などを利用して賃金を得た)などともいわれています。
規制ばかりでない、人々の生きる力もまた黒瀬湊・街道の賑わいにつながっていたことが読み取れます。

巡見使(あるいは巡検使)の通行・苗木藩主の上京

巡見使とは、幕府が将軍の替わるごとに、地方の情勢調査のため派遣した上使のことで、この制度を定めたのは家康でした。将軍の代替り(旗本3人 検者・小姓組番・書院番)が視察を行うようになったのは第3代家光からです。中野方では9回の通過がありました。(中野方町史『生きている村』)
この地方の通過経路は、最初は飛騨から加子母村に入り、付知川沿いを南下して村々を回り中津川村へ行ったらしいですが、延宝(1673-1681)の巡見使以後は久田見村から苗木領に入り、黒瀬街道を東進して中野方村で一泊したと記録にあります。

中野方村に宿泊した年月と人数は、
・延宝9年(1681)6月11日109人
・宝永7年(1710)5月23日
・享保2年(1717)4月1日約70人
・延享3年(1746)4月20日86人
・宝暦11年(1761)3月29日
・天明8年(1788)7月10日87人
・天保9年(1838)4月9日115人
と7回記録にあります。

それは慶応3年、15代将軍慶喜(よしのぶ)によって停止されるまで続きました。
巡見使が通過する2ヵ月前には、村内はもちろん近在の村々の農民を動員して、道普請みちぶしんや橋の架け替えを行いました。天保9年の記録によると、中野方村では、庄屋屋敷(土屋)、心観寺(設楽)、御用達近藤家(水野)を本陣とし、宿泊や馳走の準備をしました。また、行列の送迎用に人足126人と馬24頭の用意もしたとあります。

本陣には巡見区域内の村役人が招集され接待役をつとめ、賄方・料理人・給仕に回る者もいました。
宿では「…一汁一菜……または一汁無菜にても苦しからず…御馳走がましき儀、ならびに酒一切無用に候」との通達ではありましたが、買い物帳によると「…各種の野菜・とうふ・こんにゃく・卵・香茸・かんぴょう・青昆布・うり漬・川魚・鯛・いな(ブリ)・なよし(ボラ)等の海産物や酒など…」(天明8年の記録)があり、かなりのものが振舞われていました。

苗木藩主も上京の折には中野方村の庄屋屋敷で一泊しています。
苗木藩主が最後に黒瀬街道を下られたのは、明治元年。(苗木藩政史)
その2年後、遠山友録ともよしが藩主ではありませんが苗木県知事として明治3年10月に村に宿泊しています。(生きている村P296)
いずれにしても村の外へ見送るまで今では考えられないような心労があったようです。

参考文献
黒瀬街道調査報告書 平成15年 恵那市教育委員会
中野方町史 生きている村
黒瀬街道案内 平成22年 くわがしらの会