見どころ紹介

ATTRACTIONS

26.心観寺(しんかんじ)と山門跡大門(だいもん)

100mぐらい坂を上ると大伽藍を持つ『心観寺』があり、大きな山門があったという。(現在の霊仙寺辺り)傍に『大門』という屋号を持つ家が2軒あり、また、この心観寺跡を『心観寺藪』と言う。心観寺(臨済宗)は古くは禅寺として8丁4面の寺領を有し、霊仙寺(れいせんじ)、観(かん)定寺(じょうじ)という二つの末寺をもつ大和尚地(だいわじょうち)であったが、元弘3年(1333 鎌倉末期) 北条の残党の放火により本尊釈迦無尼仏を除く一斉を焼失。(安弘見伝記)その後(あと)、妙心寺派二世授(じゅ)翁宗(おうそう)弼(ひつ)によって一旦復興されたが、打ち続く戦国の争乱と飢饉・悪疫などのために村が荒廃するにつれて衰微し再び廃寺となった。それから200年後の江戸時代初期、慶安2年( 1649)京都妙心寺から派遣された清叟元淨によって再興。その後(ご)場所を変え、何度か復興したが、明治3年(1870)廃寺となった。

※伽藍…お寺にはお堂や塔、門など様々な建物がある。これらの集まりを伽藍という。
※大和尚…位の高い僧

時代の流れと心観寺の移築…慶安2年(1649) 法(ほ)利(り) (五十目坂の上の方)→万(まん)治(じ)2年(1659) 八幡(はちまん)→元禄(げんろく)7年(1694) 山際(やまぎわ)→宝暦(ほうれき)4年(1754) 敷地内 字霊仙寺(れいせんじ)(明治3年廃仏毀釈により廃寺となる)→庄屋屋敷として使われていた跡地に、禅宗の仮堂が建てられる。(町史97)

廃仏毀釈により無くなった寺の跡地のその後…本堂は壊されたが、庫裡は残った。明治8年(1875)、浄土真宗復帰が認められると、久田(くた)見(み)村の法(ほう)誓寺(せいじ)が橋立に『説教所』を設ける。明治13年(1880)柘植小平治(こへいじ)他2名の発願によって霊仙寺を創建し、法誓寺第9世現令(げんれい)を迎えて兼務住職とした。寺の位置は、字霊仙寺の、もと心観寺のあった場所である。村に浄土真宗の寺ができたのは、これが最初で、地名にちなんで、寺名を『久遠山(くおんざん)霊仙寺』としたが、中世に存在したと伝えられる心観寺末の霊仙寺とは全く別のものである。創建当時は旧心観寺の庫裡を仮堂としたが、その後、山門や本堂が創設されていった    。(町史402)
  
※橋立の説教所は、2区橋立、柘植聡氏宅の畑にあり、紅葉の木の辺りに建って
いた。『寺屋敷』と言われる場所で井戸の跡が残っているということである。       (鈴村浩紀氏談)
   橋立は篠原(すずわら)道につながっており、久田見からも近道であることから、説教所 
  の位置決めにつながったのではないだろうか。

他の見どころ